この国に於いて、自家用車が無い生活は、都心部を除けば非常に不便です。
ちょっとした用事でも公共交通機関を利用すると時間の浪費を覚悟しなくてはなりません。
私は再び自家用車が使えない状況に陥りました。
そんな不便さの中で私が思い出すのは、ルカ伝のこんな一節です。
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
というものです。
私が居るのは荒れ野ではありませんし、断食もしていません。
少しばかり不便ですが、普通に生活は出来ます。
昨日、礼拝のために、自転車で教会へ向かいました。
少しばかり寒くなったとはいえ、辛いとは言えません。
真夏の暑さに比べれば、とても快適に走ることが出来ます。
無事に礼拝を終え、教会での作業をしているうちに日が暮れました。
秋の日はつるべ落としという言葉を実感できる状況で、辺りは闇に包まれました。
教会のある軽井沢町南部から自宅へは、日中であればとても爽快な道ですが、ここは街灯の少ない町です。自転車の僅かな明かりを頼りに進む時、危険を感じることもあります。
教会の牧師は私の身を案じ、自転車を置いていくようにすすめて下さいました。
しかし、翌日の仕事を考えると、ここまで自転車を取に来る余裕はありません。多少の無理は覚悟して走り出しました。
自転車の僅かな明かりでは、歩道上の段差、道路との境界にある縁石を見分けることは難しく、予期せぬ衝撃に戸惑います。
走り始めてしばらくしますと、月にかかっていた雲が取れ、自転車のライトに頼らなくてもあたりが見渡せるようになりました。
闇に目が慣れたこともあるのでしょうが、少々薄暗い日中のような錯覚に陥ります。
まことにありがたいものです、荒れ野を引き回されたイエス様に比べれば、私が置かれた環境は何てことないのです。
そのように考え始めますと、走りながら鼻歌が出てきます。礼拝の中で歌った讃美歌が蘇って来るのです。
他人からみれば大変なことかもしれませんが、私自身、何の苦も感じません。
教会から自宅までの登り下りも眉間に皺を寄せることなく通り過ぎることが出来ました。
月明かりに導かれ、自転車で無事に家路を辿ることが出来たことに感謝の祈りを捧げました。
2010.10.18 入口義信