もう30年も前のことになるだろうか、交通事故で重傷を負い入院したことがきっかけで三浦綾子さんの作品を読み始めたのは。
当時、若いこともあり、宗教などにはまるで興味は無かったし、それに頼る人は弱い人だとさえ思っていた。

日本の家庭の殆どがそうであるように、私の実家は永平寺を総本山とする曹洞宗、近在の寺の檀家であった。親族が亡くなれば当たり前のように住職を呼び、葬儀を執り行い、命日や盆には読経して頂いていた。

それに疑問を感じることなく育ち、祖母、伯母が亡くなった時の通夜が終わった後、般若心経をあげたこともあった。

そんな中で成人し、節目だけは仏教信者で過ごした。

気付きはそんな時に訪れた。このまま何となく檀家でいることに疑問を感じるようになった。葬儀の執り行い、戒名と呼ばれる奇怪な漢字の羅列に高額の金銭を払う習慣、節目に墓地に供える塔婆。それ以上に漢字で埋め尽くされた経本を理解出来ずにいた。

新家とは言え、三代目の長男としてはこれを拒否出来る状況では無かった。この国では「信教の自由」が憲法で保障されてはいるが、現実には無理な場合が多い。その意思を貫き通そうとするならば、家を出る以外に選択肢は少ない。

そのような度胸もなく、鬱々とした想いを持ち続けたまま、日々の暮らしに埋没していった。退院した後も三浦綾子さんの小説を読み続けることが出来たことだけが救いだった。

しかし、人生とは面白いもので、そんな私が仕事の都合で現在の地に辿り着いた。
この地へ来るまでに色々な失敗、挫折も経験した。ここに書くのが憚られるようなこともあった。その都度、若い頃の事故で死んでしまえばよかったのだと思った。

今思うと笑い話のように思えるが、当時は真剣に悩んでもいた。

現在、私は軽井沢町内の教会に通っている。
この地に住み始めて7年が経過した冬のことだった。何となく内に秘めていた想いが、若い頃から抱いていた夢が実現した。

教会へ通い始める半年位前から、食前の祈りをするようになった。自分自身がかなり苦しい状況に追い込まれていた。あの事故で居なくなっていれば楽だったのにと考えることも多くなった。自分の手で刃を胸に突きたてる妄想も抱いた。

その状況でも何故か祈りだけは欠かさずにいた。

「今夜(今日)も生きる糧をお与え頂き、ありがとうございます。こうしている間にも、悩み、病い、飢えの中にある人々にも祝福をお与え下さい。」と。
今思えば我流の祈りであったし、ただ、天に祈っていた。

礼拝に通うようになって、色々なことが符合することに気付いた。会社が潰れたことも、内紛で追われたことも、家庭崩壊さえも、総てがここへ至る道であったと。
今も決して富んでいるとは言えないが、住むこと、食べること、着ることは出来てる。

あの時々、自ら生きる道を絶とうとした瞬間、思いとどまらせたものが何だったのかを気付くことが出来た。

こうして一人のキリスト者として、自分の想いを語ることで、一人でも救われる人が増えるのなら、生きる意義に気付いてくれるのであれば、私はそれでいい、それが私に与えられた使命だと。

2010.07.02
入口義信