前回も触れたが、日本人は宗教に境目が無く、無宗教であり、宗教と言う言葉に対して嫌悪感を抱く偏った民族であると言える。
例えば、キリスト教については、古く江戸時代の「キリシタン禁止令」によって、聖書的に表現するなら異邦人の宗教であり、日本の根幹を揺るがすものと刷り込まれているように感じる。
もう一つは、カルト的な新興宗教の印象が強く、宗教=危ないもの、財産を巻き上げられるものと認識している。
私が教会に通いだした時、周りの反応は様々であった。
前述のように、宗教=危ないものと捉えている人達は冷たい視線を送り、まるで関心の無い人達は無反応だった。
私にしてみれば、自分の信じるべきものがようやく見つかった、これまで内に秘めていたものを公言した感があっただけに周りの冷たい視線は気にならなかったが、その人達との付き合いを考え直したのも事実である。
私が所属する教会は、元々この地に住んいた方々が殆ど居ない。他の土地から軽井沢へ移住なさった方、教会で結婚式を挙げられた方ばかりである。
地元の方が居ないという事実が、日本人の誤った宗教観を代弁していると思う。
しばしば教会内で交わされる話だが、クリスチャンは一種インテリであり、教会に足を踏み入れたことのない人達にとって別世界から来たと思われている節があると。
それは、私たちが醸し出す雰囲気に責任の一端があるように思う。自分はクリスチャンであるという選民意識が無いとは言えない。それが大きな間違いであることは聖書も語っているのだが、この意識が地元伝道の妨げになっているのは間違い無いと言える。
古来より、日本人も自分達の力の及ばないものに神を感じてきた。それは山岳信仰であったり、富と災いをもたらす自然への畏怖から生まれたもの。それらは我々日本人の中から自然発生的に生まれたものだ。元々、我々民族にも宗教を受け入れる素地はあるのだ。
私は、誰が何を信じようと、それはその人の考え方であり、否定するつもりはない。
ただ、私たちクリスチャンが信じているものを誤解して欲しくない。
聖書の言葉は、難解なものもあるが、私は仏教全般の漢字の羅列よりは易しいと感じている。
平易な言葉で綴られた聖書、主イエス・キリストが例えを用いて語られた話、旧約の中には映画でも有名になった「モーセの十戒」もある。創世記からはじまる旧約聖書は、壮大な歴史絵巻を見ているような感さえある。
現在、書店に行けば様々な聖書が並べられている。
私がお奨めするのは、いつでも持ち歩けるようなデザインの『新共同訳 ミニ判新約聖書/詩編つき NI334 (ピンク) ぽけっと新約(ISBN978-4-8202-3235-3)』である。
私も、東京銀座、山野楽器横にある教文館で購入し、いつも持ち歩いている。このサイズなら上着の内ポケットにも入り、電車の中で取り出しても違和感は無い。
私は、人々の誤解を払拭し、より多くの人に聖書の御言葉に触れて頂きたいと願い、ホームページ・ブログを通して伝えられることに幸せを感じている。
2010.07.06 入口義信